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2004.07.06

お星様に、お願いっ!

 時に無邪気なお願いほど、微笑ましくも恐ろしいものはないと思う。
 ゑ゛? それは捩じくれている!?
 まぁ、そんな気もしますが、お暇ならちょいと耳をお貸しくださいな。

 保育園や幼稚園の七夕で、子供が誰か一人はきっと書く願い事があると思う。
 曰く、『世界が平和になりますように』
 曰く、『皆が幸せになりますように』

 この世の器は、有限で限りがある。
 これは事実だ。水平線の彼方まで続いているみたいだから、きっと果てなど無いのだろうではない。例えば、地表などは地形的或いは政治的な移動困難or移動不可能を除けば、どこまでも突進して行けてここが地表の果てですと言う突破不可能な壁はない。しかし地表の面積は、有限なモノとして計測されていて、球形表面として三次元体的に閉じた二次元平面と言っても無限に広がったりはしていない。

 さて、その有限の器は、中に入れておける量は決まっている。
 皆が同じ量になるように分配するのであれば話は別だが、他の人よりのちょっぴりとでも多く取ったのならば、他の人全員か或いはその一部はその分だけ少なくなってしまう。最初から皆の分がなければ、お遊戯でやる椅子取りゲームみたいに、誰かはあぶれてしまう。そう、椅子取りゲームは他人を出し抜けないと自分の取り分はなくなってしまうという社会勉強なのだが、興じている幼童の時にはそんな事には気づいていないのだがそれは置いておく。
 つまり何が言いたいかというと、皆が皆、一様に良い事が続くなどあり得るはずはないのだ。もしあるとすれば、双子や三つ子の兄弟と分かち合っていない、子宮の中だけだろう。それすらも、兄弟と相部屋なら、向こうの臍の緒に流れている方が甘くタップリとしているかもしれず、こちらほど窮屈な姿勢は取っていないのかもしれないのだから。
 聖人だって腹の中はどうだか知れないし、『人』と呼ばれるに相応しい俗人が思い感じることなんて、所詮こんな物だ。『良くなって嬉しい』『満ち足りていて幸せだ』等と感じる為には、直前の自分の惨めったらしいサマが解消されたり、得ていて当然の欠けていた物が漸く得られていたりと、何がしかの変化で良い方に一歩進んだと思い込めないと幸せになったと感じることはできないだろう。或いは、自分が得ている物を持っていないとか、自分がそうなったら不快極まる事を被っているとか、自分にどうしようもなくねじ伏せられ力の差に絶望し惨めに只ひたすら許しを請う事しか出来ずにいる相手とかを、勝利者の愉悦と共に見下すとかしている時に、幸せだと感じる人は少なからずいる。
 そんな事はないと思ってしまったあなたは、極希な例外かもしれない。或いは、自分より恵まれている者を知らないか、相手が自分に欠けているモノを当り前のように持っている事が、ピンと来ていないだけかもしれない。目立って打たれる杭にだけはなりたくないと、人は自分とまるで同じ自分は人とまるで同じと極端な中庸主義で、自分とは違うから「他人」と呼んで自分ではないモノだと認識する事をすっかり理解できなくなり、困った意味での梵我一如になっているのかもしれない。自分の独善的な主張に、常識とか皆同じように考えているとかのレッテルを当然のように貼り、自分の意見は社会全体の意見だと思い込んでいる、困った梵我一如ちゃんは、以外と身の回りにいるものだ(笑)

 さて、自分が幸せと感じる一つマシな状態になったのであれば、裏ではあなたに椅子を盗られた為にあなたが幸せになっただけ不幸になった人がいる。海岸で砂のお城を作ったのであれば、そこに盛った砂の分、どこかが窪み凹んでしまったところが必ず有る筈だ。幸福を感じるのは、一段階望ましい状態に抑揚したのを感じる瞬間だから、その幸せに感じた状態が日常になってしまえば、それに慣れてしまいその状態は普通であって幸せではなくなる。俸給が大きくアップした時は嬉しいが、そのまま横這いが続けば、嬉しくなくなりついで上がり続けない事に不満を覚え始めてくるのではないだろうか?
 俗物が幸せに感じ続けるのであれば、上に舞い飛ぶモノが少なく下に蠢くモノが多く、昨日より今日今日より明日と肥大する欲望を永遠に飽食させ続ける事が必要だろう。そしてそれは、自分ほど幸せでないモノから、その分を搾取し続ける事でもある。自分が幸せであり続けるならば、そうされ続ける事を強いられる世界は、平和ではいられないかも知れ無い。互いに喰い合ってばかりな事はあっても、皆が皆何も損なわず欲しいモノを得続けることは、果たして具現し得るだろうか?

 優等生的なお願いをするのであれば、自分ではどうあぐねいてもできなかった事を、それが出来てしまう他人に自分の使命を肩代わりして貰う事だろう。自分でできるが苦労と言う代償を払いたくないので、他から一方的に無償で得たいというのは、俗物のやることであって誉められるべきモノがやる事ではないだろう。
 願い事とは、自分には欠けているモノがあるのを知っていて、尚且つそれをどうしても得たいと渇望するが、自分ではどうしてもままならないので、他人を自分の欲望を満たす手段と道具として利用することにすること、と言えなくもないと思う。行きすぎれば、他力本願主義か。
 願い事が在ると言う事は、自分では叶えられぬ欲望に飢えている状態で、不遇を嘆いている最中だ。それは餓鬼道でもあり、目先の欲望が満たされたと思えば、次の欲が涌いてきて尽きることはないし、幸せが続く事も無い。
 そこで、何も求めず何も得て無い状態を、一番自然な姿であると受け入れられたらどうだろう。無欲極まり底の底の状態からは、失うものなどない。生への執着もなく、ある意味虚無であるその状態もまた、幸せだと言えないだろうか?

 俗物であれば、己はそれを得なければならないとあぐねいて、前向きであるならば自分からあれやこれやと努力するだろう。未だ自分が得ていないモノを得る事を願い、その為にあれやこれやと手を尽くす。そうした積み重ねが、方や過激に戦争を起こし、他方では文明や文化をそれなりに興してきた原動力ではないかと思うのだが、大袈裟だろうか?

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