漫画からの盗作小説…
Sankei Webの記事によれば、集英社刊月刊雑誌「すばる」に掲載した篠原一氏の小説「19℃のロリータ」の一部の記述が、楠本まき氏が1998年に発表した漫画「致死量ドーリス」に極似している事を認めたと言う事。
ネタ出しには色々苦労するモノですが、漫画と小説と言うメディア違いであれば、読者層も重なりにくいからバレにくいと思ったのでしょうか?
同人誌やWebで公開している作品からも、盗作されるケースがあると聞き及んでいますが、表立つ物はこれでも氷山の一角に過ぎないかと思います。タイトルだけの盗用でも、ハーラン・エリスン著作浅倉久志邦訳小説の邦題『世界の中心で愛を叫んだけもの』に、偶然とは思えないほど極似している片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』があります。しかし、思わぬ反響でメディアミックス展開し編集部や出版社などが腰を入れていたこともあり、所謂”大人の事情”で疑問視する声は闇に葬られています。
盗用か否やの判断は、アナログ的な匙加減によります。大人の話をするのであれば、商売としての経済的な損益と相手との力関係に社会的な世論の動きからの企業イメージなどへの影響などが絡んで、単純に作品同士の類似性や模作者の意図などとは些か離れたところで結論とシナリオが決められます。極端な言い方をすれば、社会的な影響力が強く風向きがいい感じに持って行けるのであれば、チンケな相手の手柄を我が物にして名声を得るのは有なのです。
言ってしまえば、巧く立ち回れた方が、全てを得ることができるみたいな?
先達の業を知らず、或いは目にしていてもその時には意識せずに、偶発的に類似した表現に行き着く事もないではありません。しかし、夢解きで人の結果を我が物にすべく同じ夢を見たかのように語り同じ夢解きを得る事で人の夢自体を奪うと言った話もあったかと思いますが、人の業績を奪う事で名声をも奪おうとするのは如何なモノか…。
金と名声を得たいのであれば、自尊心を捨てさえすれば、自ずから道が開けようということなのだろうか?
子供は親の行為を真似する事で学びますが、昨今の社会では知的財産の保護の気風が強まってきており、利権の簒奪には激しい動きが見られることが多い。中には、我欲に満ちて端銭に至るまで我が元へかき集めようとしている見苦しさを見せつけられる事もないではないが、生みの苦労は薄く得る金は厚くとハイエナのように立ち回る方もまた見苦しいのは同じ。
模倣と贋作の境目は、それを行なう者の心根に在ると思うが、清廉さがいつ何時その危うい境を越えて欲にまみれるのかと思えば、時に見ていて複雑な気持ちにもなる…
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