部屋に潰される…
自室を”魔窟”と呼ぶようになって久しいけど、最近はますます息苦しくなって来た。
換気の問題じゃない。
気を使わせられる同居人のせいでも…、多分ない。
『積ん読』とか『魅読』と言う造語はご存じだろうか?
買っておきながら、去りとてすぐには読まず、けれども売るでも捨てるでもない本の山の事。
読まない本を買うのかといわれれば、そうだと答えるしかない。
それは、なぜか?
昨今の、出版業界のせいでもある。
自転車操業的に、再販も含めやたらと数多く出てはいるが、それらの多くは一度刷ったっきり絶版となっている。
刷る数も多くはなく、チョビチョビと、小口で撒くだけだ。
昔だと、少なくとも数年は新刊屋に残っていた。
今は、潰れずに残っている本屋は大方コンビニ的だ。
つまり、売れ筋を廻して、死に筋はドンドン返本して入れ換えて行っているのが現状のようだ。
なので、小遣いが足りないからと見送っていると、店頭から姿を消し注文しなければいけなくなる。
その注文も、流通にはなく版元も在庫切れで返本待ちだったりする。
よれよれになっても戻って来て廻ってくれば未だ良い。
そのまま在庫切れになって、重版未定、絶版同様になる本は今や少なくなくない。
再販したり、出版社を乗替えて復刻する本も少なくはないが、そんな本は癖が少なく懐古心を擽るような僅かなタイトルに過ぎない。
自分が欲しい本は、読みたいのはそうした毒のない本ではなく、評論家はどうのたまおうが読みたい本だ。
なので、本屋の店頭で見かけているうちに、手元へ保護することになる。
今は忙しくて読めないのであれば、老後に…
年金積立が老境の吾を経済的に支えるのであれば、魅読を積ん読しておくのは、ゆとりのできる老後の生活を過ごす吾の心を支えてくれると信じて…
勿論、時代に応じたはやり物は、その時代に読む。
本の中には、時代に囚われないものもあれば、若い時と老いてからでは違う味わいになる物もある。
人生の経験の積み方で読み味が異なるのなら、それはそれで手放さずに、年老いた自分に読ませたいものと思う。
ただ問題は、そう思いたい本が多すぎて、本に吾が部屋から駆逐される日が読み返す日より早そうな事…
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